北朝鮮、金一族の専制国家、いつまでそんな国を存続させるのか?
* 北朝鮮の闇 実録:北朝鮮・総連盛衰記(きむやんそん (著))
朝鮮人母子家庭の末っ子として生を受けた私が最初に覚えた認識は、差別という暗いものだった。
ある日、その闇を埋めても余りある至福の時が訪れた。母にチマ・チョゴリを着せられ、兄に手を引かれ、心躍らせ通った楽園のような民族学校が突如、GHQにより閉鎖された。
小学校入学時、待ち受けていたのは楽園とは真逆の「チョウセン、ニンニククサイ」と子鬼が囃し立てる地獄門だった。
高校一年の冬、末兄が北朝鮮に「帰国」し、翌年、長兄がそれに続き、一家離散・崩壊という悲劇に見舞われた。
高校卒業後、大から中小に至る企業のことごとくに門前払いされ私は、拾われる格好で朝鮮大学の教員養成所に入学し、卒業後、民族学校の教師となったが、どうしても金日成唯一思想が受け容れられず学年終了後に去り大阪外国語大学二部ロシア語科に入学し、昼は派遣社員として日本企業で働いた。
二十歳になった私は、いつしか差別社会の中でも独りで生き抜く自信を身につけていた。
1996年春、北朝鮮に未曾有の大洪水が押し寄せ、数百万の犠牲者が出た。
その年の5月、私は2年前に謎の死を遂げた末兄の弔いと、ここ何年間、行方知れずになっていた長兄が戻った家庭を訪問するため、92年金日成生誕80周年祝賀に合わせ進水した万景峰92号(マンギョンボンクシビホウ)に乗船した。
上陸地元山(ウォンサン)から平壌、平壌から長兄が住む大安(テアン)までの街道筋の景色は、見渡す限り一点の緑もない、泥と黄土が織りなす荒れ地だった。
そんな干からびた茶褐色の大地に、一定の間隔で、一族郎党を従えた小さな集団が、地面に張り付いていたり、樹木の皮を剥いたり、新芽を摘んだりしながら、蟻塚のような黒い塊を作り、素手で或いは棒切れで一心不乱に土を穿り続けていた。
さらに車はぬかるみの路地に入った。その両側には泥を固めて作られた半球体が犇めき合い、訪問団の一人がここで降りなければ、住まいだと思えぬものだった。
再会した長兄の大きくてつぶらな眸が黄濁していた。音信普通だった四年間、スパイ容疑で牢に繋がれ、食事抜きという拷問の栄養失調から来る黄疸だった。
翌日、金日成が現地指導をした兄の職場の大安電機工場を訪問した私は、現場の操業がなされていない実態を目の当たりにした。
後に知ったのだが、私が見た光景は水害ではなく実は干害によるもので、その被害者数は1995年から1998年の4年間に300万人を数える。私は餓死に至る行軍や、無数の半球体が泥に飲まれ墓になっていくスローモーションをリアルタイムで観ていたのだ。
見渡す限り草一本生えていない北朝鮮の大地を目の当たりにして、なぜ、5千年前の人間でも出来た畑作や稲作が出来ないのかと呻いたが、実は出来ないのではなく金日成現地指導やマルスム(教示)がそれを許さなかったのだ。
この国の民にとって更に不幸なことは、私が訪れた1996年の2年前に本人は亡くなっていたが、マルスムは生きていた。
金正日はマルスムを絶対視し、農業だけでなくほとんどの産業を完膚なきまで壊滅させた。
なぜなら、彼にとって必要なのは、百万の党員だけで、あとは無用だったからだ。
300万の餓死者は北朝鮮の身分階級の一番下にある、敵対階級とされた人々である。
彼は金日成の死亡(1994年)から1997年までにその墓に約970億円を使った。その金があれば1995年から1998年にかけ300万人の飢餓死を救えた